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加藤議員 (自由民主党) : ウィキペディア日本語版
加藤紘一[かとう こういち]

加藤 紘一(かとう こういち、1939年6月17日 ‐ )は、日本政治家
衆議院議員(13期)、防衛庁長官内閣官房長官自由民主党政務調査会長自由民主党幹事長宏池会会長を歴任した。
鶴岡市長、衆議院議員を務めた加藤精三の五男。三女は、衆議院議員加藤鮎子
== 来歴・人物 ==
愛知県名古屋市で出生し〔「政治家人名事典」日外アソシエーツ〕、山形県鶴岡市で育つ。1952年、鶴岡第三中学校に入学。父・加藤精三自由党推薦で同年の第25回衆議院議員総選挙に出馬し、旧山形県第2区でトップ当選。その後、加藤一家は東京へ移り住み、加藤も麹町中学校に転校。麹町中での同級生岸田森に標準語を習う。1955年、麹町中を卒業し東京都立日比谷高等学校に入学。同級生に保岡興治利根川進山尾三省黒岩秩子らがいた。1958年、日比谷高校卒業。東京大学理科一類を受験するも合格できず、補習科に所属。翌1959年、東京大学文科一類に合格する。日比谷高校の同窓である外交官の渡辺伸松本清張の娘婿)に誘われ、東大水泳部に入部。ゼミの指導教官は坂本義和1963年、東大法学部政治学科を卒業。朝日新聞の入社試験には合格したが、外交官試験は不合格であった。そのため4月に法学部法学科公法コースに内部学士入学する。その後あらためて外務省を受験し直し、合格。1964年、東大法学部公法学科を卒業し外務省に入省した。在職中台湾大学ハーバード大学に留学する。1967年、香港副領事在職中に結婚。1970年に帰国し、外務省アジア局中国課次席事務官となる。この間、父・精三が死去した。
1971年5月、次期衆議院議員総選挙への出馬を表明し、同年12月をもって外務省を退官。翌1972年2月、外務事務次官法眼晋作の仲介で大平正芳に会い、大平派に加わる(加藤の父・精三と大平は1952年の総選挙当選同期である)。同年12月の第33回衆議院議員総選挙に父・精三の後継者として旧山形2区から自由民主党公認で出馬し、初当選した。1978年、当選2回で第1次大平内閣内閣官房副長官に抜擢される。同年12月、衆議院議事進行係に就任。1979年第35回衆議院議員総選挙で3選、これを受けて成立した第2次大平内閣でも官房副長官に再任された。
1984年第2次中曽根改造内閣防衛庁長官に任命され、初入閣。第2次中曽根再改造内閣でも留任。1991年宮澤内閣内閣官房長官に就任、2度目の入閣を果たす。官房長官在任中、「朝鮮半島出身者のいわゆる従軍慰安婦問題に関する内閣官房長官発表」、通称「加藤談話」〔慰安婦問題で度々取りざたされる「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」(いわゆる「河野談話」)とは別。河野談話は加藤の後任の河野洋平が1993年8月に発表。〕を発表している。
1994年7月、自民党は第40回衆議院議員総選挙での敗北以来10ヶ月ぶりに与党に復帰し、加藤は総裁河野洋平の下、自民党政調会長に就任。一貫して自社さ連立を支持し、梶山静六保保連合派を牽制し続けた(梶山も一時は自社さ派だった)。翌1995年、総裁・橋本龍太郎の下で自民党幹事長に起用される。1998年12月、元首相の宮澤喜一から派閥を禅譲され、宏池会会長に就任した。
2000年加藤の乱により、宏池会が分裂。
2001年12月、衆議院テロ対策特別委員長就任。
2002年3月、自身の秘書の逮捕を受け宏池会会長を辞任し、自民党を離党。同年4月に衆議院議員を辞職した。2003年第43回衆議院議員総選挙では無所属で出馬し、11選で国政に復帰。その後、自民党に復党、宏池会最高顧問に就任した。
2005年9月、宏池会最高顧問辞任、宏池会退会。
2009年第45回衆議院議員総選挙では、全国的に自民党に猛烈な逆風が吹き荒れる中、小選挙区で13選。
2012年12月の第46回衆議院議員総選挙に際し、党執行部と自民党山形県連が加藤を継続公認したことに対して、山形県選挙区選出の同党参議院議員である岸宏一が反発、前酒田市長の阿部寿一を擁立し、自民党系の分裂選挙となった。反自民党勢力をも糾合した阿部に対して選挙活動中も言語および歩行障害がみられた加藤は十分な支持を得られず接戦の末に敗れた。さらに、党の73歳定年制のために比例重複立候補が認められず、比例復活も出来ずに議席を失った〔「47NEWS 加藤紘一氏が山形3区で落選 健康不安説払拭できず 」 『共同通信』 2012年12月17日〕。なお東北の選挙区から出馬した自民党候補者の中で唯一落選した候補者となった〔小選挙区で敗北した他の候補者は比例で復活当選している〕。
落選後も政治活動を続け、2013年1月には日中友好協会会長及び同会訪中団団長として元首相の村山富市(日中友好協会名誉顧問・同協会訪中団名誉団長)や元防衛庁長官(自民党衆議院議員)の中谷元らとともに中国を訪問。中日友好協会会長(元国務委員)のと会談した〔尖閣問題で意見交換 菅官房長官「大いに話を」 日中友好協会が訪中 2013年1月28日 MSN産経ニュース〕。同年2月、村山らとともに首相官邸にて首相の安倍晋三に面会し、唐との会談の内容等について報告した。選挙再出馬については明言を避けていたが、同年4月、後援会関係者との会合で地元において私設秘書役を務める三女・加藤鮎子を後継者に指名し、事実上政界引退の意向を示した〔加藤紘一氏、事実上の引退…後継に三女 『読売新聞』2013年4月18日〕。
加藤紘一後援会は継続して加藤の政治活動を支援している。同年6月26日、鶴岡市内で約200人が出席して開催された「加藤鮎子さんを励ます会」にて「加藤鮎子後援会」が新規に発足した。 なお、第46回総選挙での落選後、支持組織が弱体化しており、秘書は全員加藤の元を去った〔公認目指す加藤紘一氏の三女…父の秘書全員去る 『読売新聞』2013年6月27日〕。
2014年5月18日付の日本共産党機関紙「しんぶん赤旗」日曜版に元自民党幹事長ながら寄稿。安倍政権集団的自衛権の行使容認の方針について「徴兵制まで行き着きかねない」と反対を訴えた。また、慰安婦募集の強制性を認めた河野洋平官房長官談話の見直しを進めようとしていた安倍首相を批判した〔加藤、古賀、野中氏…元自民幹部 宿敵「赤旗」に続々登場で首相批判+(1/2ページ) - MSN産経ニュース 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「加藤紘一」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Koichi Kato (LDP) 」があります。



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